白猿伝説が残る!奥飛騨温泉郷の歴史を紐解く
3,000m級の山々を背に点在する5つの温泉からなる岐阜県の「奥飛騨温泉郷(おくひだおんせんごう)」。無料または寸志で利用できる露天風呂や足湯がたくさんあり、気軽に楽しめる温泉地として人気があります。本記事では伝説や民話にも登場する奥飛騨温泉郷の歴史と共に、その歴史を感じることができるおすすめスポットを紹介します。
目次
奥飛騨温泉郷とは?
奥飛騨温泉郷は5つの温泉からなる温泉地
奥飛騨温泉郷は、岐阜県高山市の山中に点在する温泉地。
平湯(ひらゆ)温泉、福地(ふくじ)温泉、新平湯(しんひらゆ)温泉、栃尾(とちお)温泉、そして新穂高(しんほだか)温泉の5つで構成されています。
自然の恵みを受けた温泉地で、東海地方随一の露天風呂天国とも称されています。
1年を通して多くの観光客が訪れる
山々に囲まれた奥飛騨温泉郷周辺は、さまざまな体験ができる場所として、多くの観光客に人気があります。
3,000m級の山が連なる北アルプスもあるため、登山愛好家に人気のエリアで、季節を問わず、登山客が訪れます。
冬になると穂高(ほだか)や乗鞍(のりくら)などは、スキー客で賑わいをみせます。
また、新穂高ロープウェイも多くの人が訪れる観光名所です。日本でたった一つの2階建てロープウェイがあり、標高2,200mの壮大なパノラマを楽しむことができます。
奥飛騨温泉の起源とは
奥飛騨温泉の発見は明確に分かっていない
奥飛騨温泉の発見は明確には分かっていません。
しかし、奥飛騨温泉郷の平湯温泉は、戦国時代の伝説や江戸時代には既に温泉地として使われていた記録があります。
このことから、平湯温泉は奥飛騨温泉郷5つの温泉の中でも最も古い歴史を持つとされています。
平湯温泉に残る白猿の伝説
奥飛騨温泉郷の中で最も古い歴史のある平湯温泉には、温泉が発見された由来とされる白猿(はくえん)の伝説が残っています。
白猿の伝説とは、戦国時代、武田信玄が飛騨を攻めた際、疲れ切った兵士の前に老いた白猿が現れ温泉に導きました。そして、その温泉に兵士が浸かると、元気を取り戻したという話で、江戸時代末期の書物に記録されています。
奥飛騨温泉郷の発展
提供:奥飛騨温泉観光協会
江戸時代、湯治場として栄えた歴史
奥飛騨温泉郷のある場所は、北陸諸国と江戸をつなぐ峠道でもあったことから、参勤交代の際の湯治場として、多くの大名たちに利用されていました。
明治時代の書物、斐太後風土記(ひだごふどき)では、平湯温泉に浸かる人々の様子が絵図に描かれています。
このことから、江戸時代には平湯温泉が多くの人々の身体を癒した場所であったことがうかがえます。
江戸時代後期、北アルプスの峰々が開山される
その後江戸時代後期(1823年頃から)、播隆上人(ばんりゅうじょうにん)の手によって、北アルプスの峰々が開山されました。
開山がきっかけとなり、後に多くの登山愛好家が訪れるようになったのです。
開山された当初は信仰登山の対象となっていましたが、明治時代になると「日本アルプスの登山と探検」を著したウォルター・ウェストンら山好きな外国人によってスポーツとしての登山が紹介されました。
その後、登山ブームが起こり、奥飛騨温泉郷のある北アルプスも注目されるようになったようです。明治41年(1908年)には、日本山岳会に次ぐ歴史の古さを誇る、飛騨山岳会が設立されました。
終戦後、登山バスやロープウェイなどの開業により、さらなる人気温泉地へと発展
太平洋戦争が始まった頃、乗鞍岳(のりくらだけ)のなだらかな山容に目をつけた軍部が山頂に、航空機エンジンの高地実験場の建設を始めました。
軍部から協力を求められた濃飛乗合(のうひのりあい)自動車と高山市は、終戦後に乗鞍岳が観光地となることを見込んでバスが通行可能な道路幅を確保したとされています。
結局、航空機エンジンの実験は成果が出ないまま終戦を迎えましたが、濃飛乗合自動車と高山市が見込んだ通り、乗鞍岳の自動車道路は飛騨観光の先駆けとなりました。
終戦直後、登山バスが運行されたことをきっかけに、有料道路乗鞍スカイライン、新穂高ロープウェイの開業、安房トンネルの開通など発展を遂げ、露天風呂天国そして、人気の山岳観光地となりました。
1960年代には全ての温泉地が国民保養温泉地に指定
1960年代、奥飛騨温泉郷の5つの温泉地は国民保養温泉地に指定されました。まず1964年6月11日に平湯温泉が単独で、そして1968年11月19日にその他4つの温泉が指定されました。
◇国民保養温泉地とは?
国民保養温泉地とは、温泉の公共的利用を増進するために、環境庁が指定するものです。
指定を受けるためには温泉の効能、湧出量および温度、温泉地の環境などの条件をクリアする必要があります。