夏目漱石も愛した文学の街!道後温泉の歴史を学ぶ
愛媛県にある道後(どうご)温泉は、日本でも最古といわれる歴史ある温泉で、「日本書紀」「源氏物語」「万葉集」などの作品にも名湯として登場し、近代俳句の祖である正岡子規(まさおかしき)など、多くの文人を排出した街です。 また、道後温泉は夏目漱石の代表作である「坊っちゃん」など、いくつもの名作に登場しています。今回はそんな歴史情緒にあふれた道後温泉の歴史について学んでみましょう。
目次
三千年の歴史を誇る日本最古の「道後温泉」
道後温泉は、日本三古湯の一つといわれているほど、古くから知られ、万葉集巻一にも登場する温泉です。
古代伊予国風土記逸文(いよのくにふどきいつぶん)に「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と「少彦名命(すくなひこなのみこと)」が伊予の国(いよのくに)に来た際、重病に罹った少彦名命を大国主命が掌にのせて道後温泉の湯であたためたところ、たちまち元気になって、石の上で踊ったと記されています。
古代のシロサギ伝説がその発祥
全国の温泉場には、温泉の発見に由来する伝説が残っていますが、道後温泉にも興味深い言い伝えが残っています。
大昔、スネに傷を負って苦しんでいた一羽の白鷺(しらさぎ)が、岩の間から出ていた温泉を見つけ、毎日飛んできては足を浸していたところ、傷が完全に治り元気に飛び去っていきました。
これを見ていた人たちは、それを不思議に思いながら入浴してみると、気持ちが良いうえに疲れがとれ、病人もいつしか回復することが分かり、温泉を盛んに利用するようになりました。
この言い伝えが、道後温泉の由来となっています。
白鷺は道後温泉のシンボルとして、道後温泉本館では色々な場所に白鷺を模したものが飾られています。たとえば、本館の上に乗っているのが白鷺です。
©TEZUKA PRODUCTIONS
その他にも、玄関の明かりをくわえている白鷺があったり、風呂の陶板壁画にも白鷺が描かれています。
江戸時代に温泉施設が整備された
寛永12年(1635年)に松山藩主に封ぜられた松平定行(まつだいら さだゆき)は、その翌年の1636年に道後温泉の施設充実に着手し、浴槽を士族・僧侶・婦人・庶民男子用に分けました。
また、その他にも一五銭湯(いちごせんとう)、十銭湯(じっせんとう)、養生湯(ようじょうとう)、その下流には馬場(ばば)を設けたと記されています。
道後温泉のシンボル「道後温泉本館」が完成したのは明治時代
伊佐庭如矢(いさにわゆきや)は明治23年(1890年)に初代道後湯之町町長に就任し、当時老朽化した道後温泉本館の改築に取り掛かりました。
しかし、当時は多くの人からの反対の声が上がり、反対派が宝厳寺(ほうごんじ)に立てこもって抵抗したといいます。伊佐庭は、「100年の後までも、他所が真似できないものを造ってこそ、はじめてそれが物を言う」という道後の繁栄を願う強い気持ちによって、明治27年に道後温泉本館改築の偉業を成し遂げることができました。
道後温泉は数々の文学作品にも登場
道後温泉は冒頭でもお伝えした通り、「日本書紀」「源氏物語」「万葉集」など、文学作品にも名湯として登場し、近代俳句の祖といわれる正岡子規など、文学を語る上で欠かせない多くの文人を排出した街です。
道後温泉本館は、夏目漱石や正岡子規も頻繁に通っていた温泉施設で、夏目漱石の代表作である「坊っちゃん」など、いくつもの名作に登場しています。
温泉街では「坊っちゃん電車」「坊っちゃん団子」など、小説に登場する名物が実際に楽しめますから、登場人物になった気分を味わえます。
道後温泉の由来
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3000年の歴史を誇る道後温泉は、大国主命が少彦名命の病を治した話や、聖徳太子の来浴など「日本最古」にふさわしい言い伝えが多く残っています。
「道後」は飛鳥時代から呼ばれていた
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や藤原鎌足(ふじわらのかまたり)らが蘇我(そが)氏を倒した645年の大化の改新のあと、現在の今治市付近に伊予国の国府が置かれていました。
そして、国府付近を道中といい、都に近いところを道前、遠いところを道後と呼びました。
つまり、道後温泉の「道後」は飛鳥時代から呼ばれていたことになります。
地名がそのまま温泉名に
飛鳥時代からあった「道後」の名前から、この地域は都よりも遠い場所にあったため「道後」と呼ばれるようになりました。
そして、その温泉地域全体を地名のままに道後温泉と呼ぶようになりました。