日本屈指の温泉地・黒川温泉の黎明期から人気温泉地になるまでの歴史を辿る
全国的にも人気の高い温泉地・黒川温泉(熊本県)ですが、過去にはオイルショックの影響や旅館業の投資の失敗などで、衰退していた時期がありました。 そんな中、とある旅館だけはお客が絶えませんでした。その旅館の主人の思想によって、黒川温泉はさまざまなメディアにも取り上げれるほどの人気温泉となっています。 今回はそんな黒川温泉がこれまでどのような歩みをしてきたのか、歴史を辿ってみましょう。
目次
全国的にも人気の高い温泉地「黒川温泉」その発祥は
黒川温泉は、熊本県阿蘇郡南小国町にあり、南小国温泉郷の一つを構成しています。
黒川温泉は全国的にも人気の高い温泉地で、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」(ミシュラン社によるレストランではなく観光地を評価するガイドブック)で、温泉地としては異例の二つ星として掲載されました。
また、黒川温泉の発祥には「身代わり地蔵」と関係があるといわれています。詳しくご紹介しましょう。
発祥とされる身代わりになった地蔵
黒川温泉の中心付近にある「地蔵堂」には、「身代わり地蔵」の話で知られる首と胴体が分離した「首なし地蔵」が祀られています。
その昔、豊後の中津留(なかつる)というところに貧しい塩売の若者・甚吉がいて、寝たきりの父親が瓜を欲しがっていたため、瓜畑で瓜を盗んでしまいました。
地主に見つかった甚吉は、首をはねられそうになりましたが、それを逃れることができたといいます。その一方で、身代わりに信仰していたお地蔵さんの首がはねられてしまったのです。
村人はそれを甚吉地蔵として崇拝していましたが、細川藩の修行者が肥後に持ち帰ろうとしました。しかし、黒川にさしかかった場所でお地蔵さんが突然重くなってしまい、お地蔵さんをその場所に放置すると、村人は岩場に奉納することにしたのです。
すると岩の裂け目から湯が吹き出し、村人の浴場となりました。
この「いで湯」が黒川温泉の発祥であり、地蔵堂には今もお地蔵さんが祀られています。
地蔵堂は昭和初期に建立されていますが、温泉めぐりで使う「入湯手形」が境内にたくさんぶら下げられています。
地蔵堂の前にある、源泉が黒川温泉発祥の湯とされ、伝説に基づいた最初に湯が湧き出た場所だといわれています。
江戸時代にはすでに湯池の場として評判に
黒川温泉は、江戸時代中期から既に湯治の場として知られていました。肥後細川藩(ひごほそかわはん)の国境付近にあることから、藩の役人も利用する「御客湯(おきゃくゆ)」として使われていました。
明治になって、廃藩置県が行われたあとも、怪我によく効く温泉として半農宿(はんのうやど)が続けられたそうです。
1970年代人気温泉地が急落。投資が原因で存亡の危機に
黒川温泉が「黒川温泉郷」として多くの人に知られるようになったのは戦後からで、1960年には、6軒の旅館によって黒川温泉観光旅館協同組合が設立されています。
1964年には「やまなみハイウェイ」が開通したことで、観光客が一時的に増えたのですが、ブームは数年しか続きませんでした。多くの旅館が増築のために投資しましたが、多額の借金をかかえてしまい、黒川温泉の低迷が続くことになります。
1970年代には存亡の危機に
1970年代は高度経済成長が続き、周辺にある阿蘇(あそ)や杖立(つえたて)、別府といった大型旅館のある温泉地は大繁盛していましたが、黒川温泉は経営難に陥った多くの旅館が借金をかかえ、1970年代には存亡の危機を迎えました。
やまなみハイウェイの開通で、一時的にブームに乗った黒川温泉でしたが、オイルショックが追い打ちをかけ、先が見えない状態が続きました。
黒川温泉を作った1人の男
ずっと低迷していた黒川温泉でしたが、そんな時代でも1軒の旅館だけが客足が絶えませんでした。それが黒川温泉の父と呼ばれる後藤哲也さんが経営していた新明館(しんめいかん)で、現在でも黒川温泉の骨子となる宿泊施設です。
提供:新明館
後藤哲也さんは当時「風呂に魅力がなければ客はこない」と考え、裏山にノミ1本で間口2m、奥行き30mの洞窟を3年半かけて完成させ、そこに温泉を引いて洞窟温泉として客に提供することを考えついたとのことです。
後藤さんは、裏山から多くの雑木を運び入れて、あるがままの自然を感じさせる露天風呂を作りました。
「黒川温泉一旅館」のもと運命共同体に
その後、後藤さんは洞窟温泉を、他の旅館にも教えてまわったと言います。
後藤さんの思想は「黒川温泉一旅館」とし、黒川温泉を一つの大きな旅館とする運命共同体の考え方でした。
そのことが功を奏し、噂を聞いた女性客たちが続々と訪れるようになり、最初は後藤さんを奇人変人扱いして白眼視していた他の旅館経営者たちも、彼を師と仰ぐようになりそのノウハウを実践しています。
○○で存亡の危機から日本を代表する人気の温泉地に
ずっと低迷していた黒川温泉でしたが、後藤哲也さんのテーマである「自然の雰囲気」を倣って多くの旅館が洞窟温泉を作り、黒川温泉のセールスポイントである露天風呂と田舎情緒によって、日本の代表する温泉地となりました。
入湯手形により徐々に知名度が上がる
黒川温泉は1986年、全ての旅館の露天風呂に自由に入ることができる「入湯手形」を1枚1,000円で発行しました。
提供:黒川温泉観光旅館協同組合
この入湯手形は評判となり、黒川温泉の知名度も上がって売上も年々増加し、多くのメディアにも取り上げられるようになりました。
日帰りだけで年間100万人を超す日本屈指の温泉地に
黒川温泉は景観作りが高く評価され、多くの賞を受賞したりメディアにも紹介されるようになりました。それにより知名度が上がり、観光客も増え続けました。
そして、宿泊者数40万人、日帰り客だけで年間100万人を超す、日本屈指の温泉地へと変貌したのです。